milky mother menace

「彼女」と別れて一番心配なことは、「彼女」が孤独なまま死んでいくことだった。自分が支えていなければ、彼女がやっていかれないと思い込んでいたのだ。だが、蓋を開けてみればどうか。彼女は充分やっていけていた。わたしが想像したような彼女はそこにはいなかった。彼女はすこぶる闊達だし、ガリガリ亡者にも見えない。わたしと別れる寸前の彼女は、頭髪が禿げかかり、太腿が細くなって、アソコと太腿の間に三角窓ができて向こう側の景色が見えていたくらいだった。餓鬼のようだと形容してもいいぐらい、ひどい有様だった。だが、数年経ってみて、彼女は生きていた。生きているどころの話じゃない。全く別人のようになって、やりくりをしているのだ。わたしが見た彼女の未来は常に老婆だった。孤独な老婆が場末の喫茶店か何かで「大好物」のドリアか何かを背中を丸めながら咀嚼する映像が散らついて離れなかった。だが、そうはならなかった。わたしの想像を超えて彼女は亡霊のように街を歩いている。わたしは彼女がまるで自分が体験したかのように、わたしの体験したことを吹聴して回っていることを知った(全くなんでもないことだ、何を言おうが彼女の自由であるし、第一わたしの思想は彼女のものでもある)。死者でもなく、亡者でもないが、道化師にもなれない。喋る石仏とでも呼んだらいいのか。そこには微塵の後悔もヒステリーもなく、絶滅した部族の最後の生き残りでさえしないような、彼女なりの「豪奢な」生活があった。貴方と別れたらきっと貴方の考えたことや貴方の思想をすべて忘れてしまう、と彼女は宣言し、実際その通りになっている。喫茶店で孤独にドリアを食べる老婆はいない。彼女はわたし以外の人間たちに囲まれている。彼女は己を取り戻している。頭髪も禿げかかっていないし、三角窓の向こう側で軍艦が大砲を撃っていることもないのだ。生者と亡者の違いなどはないのかもしれない。歩いて死に向かっている。かつてのわたしは彼女の手を引っ張って歩いていた。そして大事なことは、彼女もわたしの手を強く握っていたはずだということだ。トランプの数字がひっくり返ることはあるが、ルールそのものさえひっくり返ることができるというのを、わたしは学んだ。どんよりとした雲がたれこめる天気の日、わたしは喫茶店に入る。そこでドリアを注文する。氷水がある。水に映る自分は老婆のように見えなくもない。煮しめた昆布のような外套が自分を包んでいる。少し眠くなる。机に突っ伏してみる。膝の力が抜ける。目の瞳孔が開く。黒雲から無数の手が伸びてくる。老婆は雲にさらわれる時に、上空から、二人の人間が道を違えて歩き出すのを満足そうに眺める。幕。